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2008年1月

僕の場合

僕は「愛・恋」については語れないし、語れそうな体でもない・・・。
人は何かを愛してこそ、なのだろうと最近思ったのだが。
なら僕は何を愛しているのだろう、と思ったときに浮かばなかったんですよね・・・。

傷付いた羽は、元に戻れるのだろうか。
自分で壊した塔を、また元のように戻すことは出来るのだろうか。
この胸を締め付ける孤独感・絶望感。
ワケも無くただ流れる涙は頬を伝い深い闇へと堕ちていく。
それはまるで、戦場のような、それでいて深い樹海の奥のような。

癒してくれ、とは言わない。
ただ、癒し方は教えてほしいかもしれない。
そして、こんな小さな灯火ですら重宝してくれる暖かな存在を・・・。

その人のために僕は生きよう。
心の呪縛を取り払ってくれるその人のために・・・。

欲しいとは言わない。
ただ、傍にいてくださるだけで・・・。

僕はきっと病んでいる。
心の病なんだ。
それには抗生剤もカプセルも効かなくて。
どんどん状態は悪化していって。
しまいには壊れてしまう、そんな病気。

治せない病気は無い・・・。
ならば、どうすれば治るんだろう・・・。
不安と悲愴が入り混じり、それは絶望へと変わる。

どこに行けば良いんだろう・・・。
誰の元に行けばよいのだろう。
このままじゃ、すぐにでも倒れてしまいそうで・・・。
このままじゃ、すぐにでも死んでしまいそうで・・・。

キーボードを叩く手が止まる。
そして、

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視点

その身に宿る精神は、その身を司る肉体にのみ宿る・・・。

体格・環境・性別etc...
所変われば品変わり、時代変われば人変わる。

Aという視線とBという視線。
同じものを見ているとしても、Aには明るくBには暗く見えたり、あるいはAには心地よく感じBには気持ち悪く感じたりするもの。
同じように見たいなら全く同じ位置に立たなきゃ出来るわけが無い。

同じ立場になんて、簡単に立てるじゃないか。
そういうかもしれない。しかし、それはあくまでもそこに立っているという錯覚である。
つまり同じ場所になんて立てるわけが無い、ということを頭に入れてもらいたい。

分かりやすく例を言うならば。
「あなたと全く同じ人間はこの世界にいますか?」
答えは当然「NO」ですよね?
あるいは、「あなたの家族と全く同じ家族がこの世に存在しますか?」
答えは「NO」

全く一緒のことです。
Aという視点は決して二つと無く、Bという視点もまた同じ。
あなたの視点とあなたの親友の視点、全く一緒ですか?
あなたの視点とあばたの他の親友の視点、全く一緒ですか?

答えは、「NO」ですよね?

よく親友のこと、大切な人のことを「同志」という場合がありますよね。
これは、まんま「同じ志を持つ者」ということですが・・・。

ここでなにか引っかかった人、いますか?
「同じじゃないのでは」、と。

厳密には違うのでしょう。
ですが最終目標としては同じなのです。

「志」はある一つの概念[モノ]。
「志を持つ者」はある一つの視点。

理由は違えども、結果は同じなんですね。
(=視点は違えども、見ているものは同じ)

その人に完璧になりきるのは不可能。
だが極力近づくことは可能だ。

俺は、なるだけその人という視点を・・・いや、その人という「セカイ」を。
より深く知りたい。
より深く探りたい。

相手を知ることは自分を知ることでもある。
知の欲求に歯止めをかけることなく生きていけたらどれほど多くを知ることが出来るだろう。
どれほど多く自分というセカイを探れるだろう。

知りたい、知りたい。
自分を、セカイを・・・。

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選択あるのみ

どちらを選べばいいのだろう。

無茶という冒険か、鈍間という防衛か。
人民を省みない改革か、人民をどうにもしない現状維持か。
自分を救えない救済か、他人を救えない自己防衛か。
過去の過ちを省みない進軍か、未来を恐れての撤退か。
策略を張り巡らす知謀か、大群をなして恐れを抱かせる強行突破か。
最愛の故人か、形だけの愛人か。
己のプライドか、世間体の良さか。
苦しくとも個性的に生きるか、あえて時の流れに身を任せて生きるか。
流行の飾りか、実用的な伝統か。
生き地獄か、死に地獄か。
情熱的に燃え上がり一気に冷める恋か、地道に熱する長い恋か。
人を活かす剣か、人を斬る剣か。
現実的な異次元か、異次元的な現実か。
男か、女か。
自己の尊重か、相手の尊重か。
優しさか、冷たさか。

生きるか、死ぬか。

あなたなら、何を信じて、何を守り通しますか・・・?

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コノ心ダレ思フ

偶然と偶然が重なり合って必然になり、その現象を奇跡と言う―。

日本人は取り分けまとめたがる。
よくあるでしょ、BEST3だとかCountDownTOP10だとか。
分かりやすい、という点には長ける。
しかしそれが持つ本当の特徴を引き出すことは絶対に出来ない。

俺は何が言いたいか。

一つになんかなれるわけが無い、ということ。

クドいようだけど、他者があってこその自分。
違いがあるから同じがある。
「陰・陽」の関係は決して混ざることの無い油と水のように。

だから・・・。

親切心は必ずしも良いことが起こるわけではないんだよ。

この世に絶対なんて無い。
いや、むしろ必然が起こりうるかも分からない。
偶然の発生元を人は奇跡と称え、奇跡を人は偶然と切り捨てる。
螺旋の渦は、絶えることなく―。

A=Bが多くの人の常識でも、ごく一部はA=Cが常識なんだ。
多くの人とごく一部の人が語ったって、分かり合えるわけが、無い。

     

 カオス
この世は混沌だ。
     分かち合うこと        嘆きの
決して混ざることの無い、混ざった色だ。

その中を今、私は歩んでいる。

そしてまた一つ、ここに偶然が生まれる・・・。

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ちょいと仕入れてきましたよ

どうやらハルヒの二期は今秋放送らしい・・・。
風の便りで(嘘)聞いてきた。

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日本人であることを誇ろう!

先ほどTBSで放送されていました
新春超歴史ミステリー古代ローマ1000年史!!空前の巨大帝国全解明スペシャル
を見ておりまして。
その後20分程父と話していたのですが。
話していて感じたことをざっくり書きますよ。

さて。
日本人とはなかなか面白い民族でありまして。
日本の思想の一つに「八百万(やおよろず)」というものがあります。
これは大まかにいうと、「全ての自然には神が宿る」といった感じですね。
さてさて、「全ての自然には~」ということはですよ。
多神教という概念無くしては成立しない思想ですね?
では何故多神教が成立するのか。
それは、太古の昔から日本人の精神にある「寛容」という精神があるからです。
たとえ敵であった人たちでも、終わってしまえばそれでおしまい。
「昨日の敵は、今日の友」とはよくいったもんですね。
即ち、相手を認めることで、自分の存在を確立すると言った所でしょうか?
だからどんな未知の文化でも受け入れてしまう、それを新たに文化として取り入れる。
この寛容が無ければ今の私たちの生活が無かったのかもしれません。

ところ変わって、現代のローマ(都市名ですがあしからず)。
ローマでの宗教といえば「キリスト教」、と説明するのが面倒なほど分かりきったことですよね?
そしてこの「キリスト教」、神と崇めるのは(敬称は省略)「イエス・キリスト」のみです。
これはつまり一神教です。
そしてキリスト教は今やアメリカ、ヨーロッパ諸国など数多くの国々がそれを信仰しています。
または有名な宗教として、「ヒンドゥー教」・「ユダヤ教」などが挙げられます。
そしてこれらもまた一神教です。
さらには欧米諸国・その他のほぼ多くの国々には日本のように「受け入れる」精神が基盤になっているわけではありません。
むしろ、他者との違いがあってこそ、その存在が成り立つ文化なのです。
だから対立はいつまでたっても絶えませんし、どちらかが滅ぶまでは終らないんです。

父の拾ってきた情報によれば、今や多神教の国家は日本だけらしいですよ。
そう、他の国々は皆一神教なんですね、それもそれぞれ違った唯一神を崇める・・・。

2000年にも及ぶこの宗教戦争―。
もし他の国々に寛容の心があったのなら、他者という「セカイ」そのものを受け入れられるだけの優しさがあったのなら・・・。
このように多くの血は出なかったことでしょう・・・。

日本はすばらしいのです。
日本国民であることにもっと自信を持ちましょう。

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